昭和42年9月19日 夜の御理解



もう、ここ、十日ぐらいなりますでしょうか、えー、田中さんところの、娘さん、清子さんが、毎晩、お琴の稽古に、通うて来ております。えー、長女が、あー、先生役でお教えしとる訳ですけども、段々、んー、一日一日、こう、琴の稽古をする事を楽しゅうなってきて、毎日、きちっと時間にやってくるんですね。もう、この頃は、おかげを頂いてから、皆さん、あのお聞きになっておったように、連れ引きをしておりますと、もう、おー、一人前に弾くように、まあその、見えるんですけど、ね。ま、連れ引きでしたら一緒に弾くことが出来る。ま、一曲は上がろうとしている訳でございます。ね。私は、信心のこの稽古と言うのは、自分の心の調子というか、ね。その、調子が合うようになり、そしてそこに、 様々な問題というか、様々な曲目の、おー、例えば、難しい問題なら、難しい問題というのは、難しい曲なんです。ですから、難しい問題ほど、言うたら、稽古がいがある。楽しみなんです。ね。信心というのは、ただその、黙して拝むというだけではない。ね。話をまた聞くというだけでもない。話を聞いて、自分の心の調子というものが合うていく。そして、一つの問題、一つの問題が、ああ、こういうような事が、こういう風に弾いていけば、こういう素晴らしい音色が出てくるんだなと、自分が楽しいだけではない、人が聞いておっても、ああ、何と信心とは、素晴らしい事だなあという事になってくるのです。だから、信心は、結局、私は、ああした、琴なら琴を稽古をするようなもんだと思う。ところが、やはり、しばらくはです。ね。なかなか初めから、ようは弾けません。勿論、調子のざまはありません。そこで先生から、調子をあわせて貰うて、さ、こう弾くんですよ、ああ弾くんですよと言うて、手を取らんばかりに教えて貰うて、弾いていくうちにです。もう、すこーしは、こう、面白みが出てきたというところが現在の清子さんが、琴の稽古の、おー、で、体得しておるところじゃなかろうかとこう思います。皆さんでも信心の稽古をなさる。先ず、第一に自分の心の調子が合うて来る。様々な問題、様々な、ね。例えば、あー、金銭に困っておる人は、あー、経済問題というその、問題に取り組んで、あー、こういうような調子になれば、こういう風にお金のお繰り合わせというものを頂けるもんだという事が分かってくる。人間関係の人は、こういうような調子になってくると、人間関係の調子というものが、親子の仲、夫婦の仲、ね。対人間、の、その、例えば、様々な、もつれにもつれている問題でありましてもです。こちらの心の調子というものが合うて参りますと、いわば、それが合うていく。いわゆる、家庭円満というですか、人間関係がスムーズに行くようになって、この世は楽しいものだなあという事になってくる。人間関係が、思わしく行かないだけでも、世の中というものは、実に不愉快なものなのです。ね。健康という事に於いても同じこと。本当に、自分一人が貧乏くじ引いたように思う。自分が一人病気をしておりますと、他の人達は、みんな健康であるから、他の人達はみんな幸せのように見える。それで、自分だけが不幸せのように思う。ね。それでもやはり、自分の心の調子が合うて来ると、その、例えば、医者が見離したといったような病人でも、助かっておるという事実がある。良い音色が出てくる。その、病気なら病気という事にたいして、病気という一つの御曲を奏でることが出来るようになる。いわゆる、健康という事については、自信が出来てくるようになる。は、どんな場合にでも、金光様、もう、どんな場合でも、薬だ、注射だと言う事はいらん。御神米一つ、お神酒さん一つでお取次ぎを頂いて、こうお願いさせて貰うて、こういう風に改まっていきゃ、おかげが受けられるという、確信が付いてくる。これは例えば、ここでほんなら、十年の信心の稽古をしておる程しの人ならば、みんなその体験を持っておる。してみると、善導寺の原さんが見えておられます。久富さんが兄弟で今日は見えておられます。例えば、三人なら、まあ、十何年もここで稽古をしておる人達がです。それこそ、あー、家族、久富さんあたりなんかは沢山おられますけれどもです。本当にまだ、薬一服言うたことがない。注射一本打ったことがない。というて、ほんなら、あー、昔から、そうであったかというと、信心がないまでは、それこそ、これほどの薬代払うておった。病院通いもこんなにしておったという人達もある。もう、そういう事に、一つの自信が出来てきておる。一日健康であるということだけでも、だから、有難いと言う事が段々分かって見えた。それは、健康なら健康という問題だけでもそうです。ほんなら、今日、ここに、ね。原さん、久富さん達が兄弟、ね。こら、私共一家のことなら、尚更のことでございますけれども、おかげを頂いて、(にいじ?)、信心せにゃいけん、薬やったら飲まん。信心しよるけん、医者にゃかからんと言ったような、そういう意地ばったものじゃないんですよね。そういうおかげの頂けてくるおかげ。どういう場合でも、だからあわてんで済む、と言う事なんです。どういう場合でも、心配せんですむという事です。ね。そういう、(みそばんでする?)心の調子が合うて参ります、その、調子が合うて、合うた調子を持って、その、病気なら病気という問題に取り組むのです。そこに、なんとも言えん、一つの、まあ、曲が流れてくるわけです。自分も有難い。信心ちゃ有難いなーとこう思う。それを見ておる、聞いておる人まで、信心ちゃ有難いもんじゃあるなあと。一番初めは、久富さんの兄さんが信心をなさっておられた。(もう、おおやけどんならな?)金光さま、金光さまばっかり言うて参ってからと言うて、まあ、悪口を言いよったその、弟さんがおかげを頂くようになった。ね。親方達がしておる信心がです。ね。なるほど尊いもんだなあ、有難いもんだなあと言う事が分かってきたんです。ね。そこに、まあ、久富さん一家の、ご親戚の方達までがです、奥さんの里からは、あー、あちらの、小郡のほうから参って見えます。江藤さんと申します。ね。娘が嫁入っておるところの、あー、娘、または、娘婿達が、子供達に至るまでが、金光さま、金光さまで勉強したり、一切の問題に取り組んでおる姿を見てから、やっぱり信心ちゃ尊いもんだなあという事になってくるようにです、ね。見ておっても、聞いておっても、信心とは素晴らしいなあと。それは、私共が何にも分からんでもです。良いという人に会うたことを聞いておると、心が静まるように、清まるように何とはなしに、良いもんだなあと、自分もいっちょ稽古してみたいというような心すらが起こってくることを、お願いする。
今日は、あー、直方から、参ってまいりました、丁度、五年ぐらい前に、椛目の時代に二、三回お引き寄せを頂いた方なんです。直方一番というほどの大きな紙の問屋をしておられます。それが、ご主人のいろんな問題で、参ってきたのが初めてだったんです。此の方には不思議なその、病気があったんですよね。その奥さんに、それがその、初めてお参りをした時に、御理解いただいたんです。私が、他の事言うても、その方は直方の、西直方教会でその、お父さんが信心をなさって、自分は時々着いて参ってもらっておった。ところが、たまたま、ここの御信者さんが、その紙屋の、ここの鳥栖の上野さんという方のお父さんですが、その、たまたま、その店の経理のことで、その、経理をしばらく担当しておられた時代、事があった。それで、椛目というところに、こういう金光様がおられるから、一辺おまいりして御覧なさいと。言う事でお導きを頂いて、参ってきたのが初めてでした。それで、そのお父さんは熱心に、いー、信心なさるんですけども、そのお嫁さんであるところのその方は、まあ、時々お参りをすると言う程度であった。で、ここでお参りさせていただいてから、実はこう、私には、こういうような病気があるという、まあ、お願いがあったから、私は、その方に申しました。あーたがこれから、バスに乗って、久留米から、そして、えー、直方に帰るまでです。あーたの心の中に一生懸命、金光さま、金光さまと唱え続けて御覧なさいと。ね。もう、本当に、一時でも自分の心から、金光さまを外さずに、金光さま、金光さまを唱え続けて、祈って帰って御覧なさいと言うてその、私は申しました。私は、そんなことを忘れてしまっておった。そしたら、今日、参って見えてからです。そん時のことを、はー、そんな事でしたなあと。ね。直方の駅に着いて改札口を出たのと、自分のその、今まで、えー、病気というその、意識しておったその病気が、もう嘘のように無くなってしまっておったと言う事です。あー、金光様とは新たかな神様じゃ在るというので、それから、二回、三回参ってまいりました。それは、主人との、人間関係の問題なんでした。二、三回参って見えとりましたけれども、そろばん通りにはどっこい、さあというわけには行きませんでした。ね。神様はですね。こういう素晴らしい働き、こういう働き、力があるんだという、印を見せて下さったような気がしますね、身体に。現在、それ以来、私のほうにあの病気と言うのは、もう起こらないと。直方の駅の、あの改札口を出るのと、病気が治っているという事に、を感じたのが一緒だったようにです。おかげを蒙っておった。で、そのまま、ご主人は広島のほうへ行って、それっきり帰ってお見えにならないから、その、若い奥さんが中心になって、番頭さんを使うてから、今日まで商売をなさっておられる訳です。誰だってみんな、あの、幸せになりたいのですよね。もう、幸せになりたくないというものは、誰もいないのです。もう、人間であればみんな幸せになりたい。幸福になりたい。ね。今日も、お参りして見えたのは、勿論、主人の事もございましたけれども、商売上の、ちょっとした、行き詰まりやら、お伺いしたいことがあって、今日は参って見えたと。私、その方のことを聞かして頂よりましたらですね。まあ、分かりやすく申しますならば、ここの本線を、まあ、久留米、日田間という事に致しましょうか。ね。ほんなら、久留米なら、久留米という目的に向かっていかなければならんのですよね。まあ、久留米に行くためには、この道をこう下らなければいけませんよと言う事だったら、みんながそう行くんですけれども、ね。久留米に行きたい、久留米に行きたいと思いながら、だーれも、尋ねもせんで行くもんじゃけん、久留米に行きたい、久留米に行きたいじゃなくてから、上のほうをさっさと行きよりなさる。日田までーちから、段々その近付きよりなさるという感じ、ね。もし、久留米行きという事を、久留米に行きたいという念願を立てたらです。久留米行きの、この道を歩かなければ、久留米には到達しないのです。それを、久留米のほうへ行かずに、日田のほうへさっさと歩いて行きよりなさるというような感じ。悩みが日田に届くごたる感じ。それを、此の方はこういう風に言うておられます。先生、私という女子(おなご)は、もう、一生不幸せでございましょうと、こう言うてござる。どんなに働いても、どんなに働いてもです、こういう、人間関係の中にあってです。私が幸せになるはずがない。けれども、子供達のために、親のために、こうやって、一生懸命働いておるんですけれども、何の望みもなからなければ、何の喜びもない。ただ、丁度、機械のように働いておるだけだと、こう言うてある。私は、いつも、お金が貯まっていくのが楽しみでしょうがない。さあ、お金もおかげで、こうやって一生懸命働いていきよら、貯まっていきよりますけれどもです。幸せという事では、お金があるだけじゃ、幸せじゃないと言う事になる。貴方、そこに気が付かれたら、これから幸せになりますよと、私が申しました。ね。お金じゃない、健康じゃないと、人間の幸せ、例えば、久留米に行きたいならば、久留米行きの道をたどらないけん。日田に行きたいならば、日田行きの道をたどらな行けんのに、反対のほうへ一生懸命に下っておるようなもの、登っておるようなもの。そして、結局、何の明るみも、明るさも、何の希望もない。自分は一生、こう働き続けて終わっていかなければならないだろう。そういう人生を自分で決めてしまっておるような毎日を過ごしておる。信心させて頂いておるとです、やはり、久留米に近付きよるとです。久留米に近付きよると言う事が分かるのですよ。ね。例えば、それが久留米というと何ですけれども、ほんなら、幸と不幸の道が、こうあるとするならです、本当に幸せになるというならば、幸せになる道を歩かなければいけんのですよ。ところが、金だ、物だ、暇がないの、時間がないので、それでもう、幸せになりたいと思うて、一生懸命、けれども、幸せの道をひとつもも歩いていないという事。だから、こげん働きよるばってん、次はどげんなるじゃろか。子供が言うこつ聞いてくれるじゃろか。ね。そういう不安な、毎日を過ごし、そして、ほんなら、老境に。例えば、もう六十になった、七十になったと言うて、はあ、私は、もう、いよいよ幸せと、向こうへ、どこへ幸せという、ほんならもう、とにかく幸せとは、もう、ほとんど縁のといいーい所へ来てしまっておる。もう、今からバタバタしても、難しかというごたる感じさえする。ね。幸せには幸せの道がある。その道を分からないけん。幸せになるためには、ね。こういう道があるんですよ。こういう心の状態にならなければ幸せにならんのですよ。ほんなら、こういう道を歩いておると思うから、心の安心が生まれる。こういう心の状態にならなければ幸せになれませんよという道を教えて貰うから、自分の心が、例えば、そういう風になっていきよる。例えば、ここで申しますならば、信心とは、一年一年有難うなって行くと仰るのです。それは、幸せの道を歩いて行く内に、自分の心が、段々ね。どんなことがあっても、驚かんで済む。どんな場合にだっても、いらいらせんで済む。いつも自分の心の中に、喜びが段々強く深くなっていきよる。はあ、この喜びさえ、深うなっていきゃ、幸せ間違いないんだなあ、極楽行きは間違いないんだなあという、私は、そういう、心を、自分で確かめ確かめ、その道を歩いていかなければいけない。そこに、私はいつも申しますように、先ず、その心、そこのところの心の調子というものがです、合わなけらばいけんのです。様々な問題を通して、その問題を聞きこなす。ね。それを、例えば、ここに、なら、今、清子さんが先生と一緒に、琴を弾いて、それがいくらか段々出けて、はー、本当に、もう自分がこんなに弾けるようにある。かと言うて、ほんなら、清子さん、あんた一人で弾いてごらん、といわれても、まだ、弾ける筈はないけれども、もう、連れ引きの楽しみと言うのは出けて来た。ほんなら、あんた調子を合わせてごらん、と言うても調子が合うはずはないのだけれども、それが、ね。半年、一年経っていくうちに、調子が分かるようになり、なら、あの曲も、この曲も弾きこなせるように必ずなるのです、稽古さえすれば。聴いとるだけじゃいけん、見とるだけじゃいけん。やはり、自分が、やはり稽古しなければいけん。そこにはですね、弾く楽しみ、聴く楽しみ、なるほど、見たり聴いたりしておる人までが楽しい雰囲気というものが出来てくる。
皆さんの場合なんかは、そこんところの、まあだ、その連れ引きの楽しみも、出来ていないという人が、まあ、合楽界隈の方たちの場合は、まあ、殆んどじゃなかろうかというふうに思うのです。連れ引きというのは、ほんなら、私が、何の先生である。ね。皆さんと私と一緒に弾いてくださる。もう、本当に、同じ調子を合わせて貰うて弾きよると、ほんとにこう、あー、良い音色が出てくる。ね。そるきんち言うて、帰って弾いてみると、まあだ、ちょっと可笑しい。またかろうてくる、また習うて、繰り返し繰り返し、そこんところの、私は楽しみが分かってくるようなところまでです、ね。信心を高めていかなければならない、進めていかなければならない。ね。そして、なるほど、この道さえ歩いていけば幸せになれるんだという、確信の出来れるとこまでです。信心を進めていかなければならない。私は、もう絶対、幸せになる道を歩いているんだと。久留米行きという、いわば、あー、が目的であるならばです。私は、間違いなしに、久留米行きになる道をたどっているんだということが分からなければ、楽しみがない。なら、この道さえ歩いていけば、必ず久留米に到達するという、確信も何にもなしに、久留米、久留米、久留米と言うて歩いて行きよるけれども、段々、段々日田のほうさん、行きよるもんじゃき、久留米は遠なっていきよるというような人が、もう、この世の中には殆んどではなかろうかと思うですね。そして、八十になりました、あー、七十になりましたという時にです。ほんとに、一生を振り返ってみると、苦しいことばっかりじゃったなあというようなです。ね。果たして、このまま極楽行きが出来るじゃろかという不安を持ってです。この身が、お終いになって行くなんて、こんなに馬鹿らしい話はないのですけれども、そこに気が付かない。こういう素晴らしい調子があるのに、その調子を合わせようともしない。ね。その事を私は、人生の重大事だと思う。もう、何が一番重大かと言うてもです。これが一番重大なんです。そして、幸せになるためには、もう、これが、確信の出来れるものを、先ず掴まなければいけない。それを、私に言わせるならば、幸せとは、何と言われても、自分の心なのだと。側にあるものじゃないと。金や物や、自分の周囲や、どんなに素晴らしい、出来の良い息子がおるから、幸せとは限らない。人じゃない、自分の心の中なのです、ね。自分の心のなかが、こういう風に段々、有難うなって行きよるという事が分った時、初めて、これなら絶対幸せになれるぞ、いよいよこの心を磨いていくぞ、改まっていくぞ、いよいよ豊かに、有難いものにして行くぞというです。私は、稽古さして頂くという事が、御道の信心だという風に思うのですよ。ね。だから、そこに先ず気付かして頂くという事が、先ず、第一なんです。ただ、ちょっとお伺いごとで参ってきた。ちょっとお願いに参ってくると。ま、その事を通して、神様を分かるという事が有難い。ね。分かったら、その神様の、いよいよ、ここを分らせて貰うて、その神様が願うてござること、氏子、信心しておかげ受けてくれよと。氏子信心して、どうぞ幸せになってくれよと、神様が願うておられるその、願いが分かってくる。誰だって、幸せを願わんものは、ひとーりもありません。誰でも幸福になりたい。幸せになりたい。健康になりたい。人間関係もスムーズに行きたい。お金の不自由なんて真っ平だと、こう思うのですけれども、実際はその問題から、脱皮することは出来ない。ね。それは、ね。ただ、枝葉のところだけを見たり、いわば、一生懸命努力はしておるけれども、肝心要のところの精進努力がなされていかないところに、何時までたっても同じ事だといったような感じが致します。信心とは、そこんところを一つ、本気で分からせて頂こう、悟らせて頂こうとする願いがです、ここの御広前には、信心の稽古に通うて来るところだと、こう仰るように、稽古に通うてくる魂。師匠と一緒に連れ引きをして、本当に、なんとも言えん音色を自分も弾くことが出来るようになり、それが一人で弾くようになり、一人で調子が合うようになり、ね。どんなに難曲であっても、その難曲を弾きこなせれるようなおかげを頂いた時にです。なお、自分も人もみんなが、あー、信心ちゃ有難いもんだなあという事になってくる。ね。そういう心の状態を願って、そういう心の状態を目指しておかげにならないけません。そりばってん、そんな、そげなことは大変難しいことじゃろうと。そうじゃない、もう、その気になりゃあ、見やすうできるのだと。ほんで、その気になるかならないかという事が問題なのですよね。どうぞ。